昭和56年3月18日 朝の御理解              御理解 第6節                       「眼には見えぬが神の中を分けて通り居るやうなものぢゃ、畑で肥をかけて居ろうが、道を歩いて居ろうが、天地金乃神の広前は世界中であるぞ。」                      



 天地金乃神のお広前は世界中であるぞと、それをまあ論理的に聞きますと、成る程天地の親神様、天地金乃神のまあお懐の中にも等しいものであるという事が分かります。
 ですから分かっただけではなくて、成る程天地の懐の中に抱えられておる私。お腹が空いたら、ふっとこうさぐると、そこには天地の乳房がある。というようなね、実践がね、頂ける事が信心なんです。天地金乃神様をそのように理解が出来る。それはどこでどういう事をしておろうが、それこそ畑で肥をかけておろうがと、天地金乃神様のお懐の中であり、お広前であるという事。
 だから分かるという事と同時に、それが実感出けれるような、おかげを頂かせてもらわねばならん。私はいつもそれを思うのに、小さいなら畦道なり道を朝露がいっぱい下りておる中を、歩かせて頂きますと、足下が濡れます。裾がこうしっとりと朝露で濡れる、そういう実感なんです。もう分けていけばさわさわと音がする。歩いていけば朝露に、裾の方が濡れるというようなね、そういう実感神の中を分けて通る。神の中を分けて通るのですから、そういう実感がね頂けるような神様を頂きたい。又それが信心なのだという事です。
 だから分かっただけぢゃいかん。その実感を感じられる事の為に、その天地の心に添わせて頂く生き方をいよいよ実験してまいりますと、そういう実証が生まれてくるんです。ね、それぞれの実証が生まれてくるからおかげ頂いた、どうという事ぢゃなくて、もう日々の中にいうならば、どのような場合であっても、成る程平穏無事という時にゃなお実の事、その実感が募ってまいりますから、有難いという心がいやが上にも募ってくる。何かそこに問題がおきてくる。問題がおきてくると神様というておすがりをする。
 そしておかげを頂いてはじめておかげを頂いた、神様の働きの間違いなさを知るというのではなくてね、そういう日々こそが、神の中をわけて通り居るよう実感の中に、暮らさせて頂くという事が有難いのであります。おかげを貰うから・頂くから有難いね、もうそりぁそうだけど、それでは自分で感じた時だけおねがいをして、思ふどおりのおかげを頂いた時だけが有難いのである。いつも有難いというね。
 昨日は合楽会でございました。皆さんの話を聞かせてもらいましたが、久保山さんが発表しておられました。今度は十三日会、それから十五日の信徒大会にまあ親子で、おかげを頂いた話でございました。
 十三日会だからおかげ頂こうと思うとったら、お孫さんがあの自分もついてくるという。なら連れていこうといよったら、その孫さんがお母さんに嫁ですね、お母さんに向かってお母ちゃんあんたもついておいでという。なら私もお参りさせて頂こうかとまあ云うて、孫・嫁三人でお参りしてきよったら、又孫さんがおじいちゃんに向かってね、おじいちゃん、あんたも参らんねと云う、そしたらおじいちゃんが云われる事が、おじいちゃんも参ろごたるばってんか、家に留守番がないから、おじいちゃん留守番しとくけん、御神米ば頂いて来てくれんのちそう云うた。なら御神米ば貰うて来てやろち云うて、親子三人で十三日の日におかげを頂いた。
 本当にこうしてまあ熱心に信心が出来るわけぢぁないけれども、嫁もそんなふうに付いて来てくれるようになる事も有難いけれども、その十三日会の日に親先生のお話がこの拝み合うて行くという御理解を頂いた。一切のものを拝む、人を拝むいつもこう合掌しておらなければ、おれないような心の状態。信心とは一切拝み合い、私はそういう時、いうなら神の実感というかね、それこそさわさわとその草のさやぎを聞くような、朝露で自分の足下が濡れてゆくような、心持ちの時である。一切を合掌して、いつも合わせとかんならんという事ではないけれども、いつもがそこに見るもの・聞くもの一切が拝んで受けるという頂き方。成る程久保山さんが毎日これはお届けされるのに、どうぞ今日も成り行きを大事にさせて下さい、尊ばせて下さい、というがその十八番なんです。もうこの事に徹底していかれる方なんです。
 そして先生帰らせて頂きましたら、沢山ここで御理解をテープに入れとるのを家にありますが、主人がそれを何巻何巻も私共が帰る間、御理解を頂いておる所でございましたと。そして丁度私共が帰らせて頂きましたら、丁度親奥様のお誕生日の日に親先生が神様から頂かれたという。「拝み合いつつ拝みつつ」というあのお歌の御理解があっておる時に、丁度帰りましたちいう。
 もう本当に実感としてね、本当に親先生の御理解を頂いて、拝もうとか拝み合うとかと、なら主人もお参りは出来ませんでしたけれども、御理解を何巻も何巻も今までお前どんが帰ってくるまで、こん御理解を頂きよったち、そして丁度頂いておられる所があの奥さんのお誕生日の日の御理解で、いわゆる拝みつつ、拝み合いつつというあの御理解が出ておる所でしたから、本当に感動したという事は、そこにさわさわとこの草木のさわやぎを聞くように、朝露に足がしっとりと濡れていくような思いというのは、そういうような事ではなかろうか。
 だから信心生活とはもう一切を心の中に合掌して、一切を拝んでゆく、拝めてゆけれる、そういう中を神の中を分けて通りおるようなものぢゃという実感の中に、日々信心の稽古をさせて頂かねばならない。
 まあ昨日の朝の御祈念の後の久保山さんのお届けでしたけれども、御親戚に癌で難しかろうごたる方が居られる。その方に昨日の朝の事ですから、昨日の朝の御理解を持って行って御神米を頂いて、お導きに行きたいというお届けがありましたが、いつもそういう心掛けで居る、いつもいうならば成りゆきそのものを、いよいよ大切にさせてもらう、いや尊ばせて頂こうとする、いつも合掌する心がある所に、そういう心があったからこういう金儲けが出けた、こんな病気がなおったというおかげではなくて、日常茶飯事の中にね、十三日会の日にここにお参りをされようとした、孫さん・嫁さん・御主人との話のその中に、お参りさせて頂いて皆さんの有難いお話を聞かせてもろうて、その中に親先生のその拝み合うという話を聞かせて頂いて帰ったち、こうこうという話を皆さん聞きながら、そういう生き方、そういうおかげを頂いていってはじめて、天地金乃神のお広前は世界中であるぞという実感が頂けるのです。
 そういう実感のこもった有難しのいわゆる日常生活・信心生活、これ今日皆さんに聞いて頂いたのは、いうならば合楽で信心の稽古をさせて頂いて初歩の方、ようやく合楽の信心が分かり出した。教えを実験させて頂こうとされる方のいうなら、今日はお話でございます。だからそこを抜きにしては、信心生活はないと私は思うですね。どうぞ